優雅と格調と美しい
◎◎◎◎◎

山 門

山 門

清澤山 浄元寺

曹洞宗

本 尊  観世音菩薩

鎮 守  秋葉三尺坊

本 山  永平寺(福井) 総持寺(横浜)

煎茶道  賣茶流 家元 友仙窟

浄元寺の由緒

山門(延享4年建立)

山号と寺号

昭和初年まで山門の西の地蔵堂の後ろに清らかな名水の 「亀口の泉」 があり、この泉のわく沢にちなみ 「清沢山」 といい、この寺を開いた 「正躰浄元大禅門」 の名をとり 「浄元寺」 という。

本尊と鎮守

当宗寺院では 「釈迦牟尼仏」 をご本尊とするが、当寺は観音堂として創建きれて今日に至るので、木造の観世音菩薩を安置し、寺の守護神として、秋葉三尺坊がまつられている。

宗旨と本山

印度のお釈迦きまの説かれた仏法は、達磨大師によって中国へ、永平寺の開山・野山禅師がわが国に、更に総持寺の開山・野山禅師により全図に拡められた。臨済・黄檗の禅に対し無念無想・只管打座 (ひたすらに坐る)一般の人にも人りやすい曹洞禅で、永平寺・総持寺を両大本山とする。龍輿寺をこの地方の本寺とし、久松・宗円・盛屋・善昌・太平・宝珠など十数ケ寺が末寺になっている。

開基と歴代住職

当寺は正躰浄元(草創開基)により建立された観音堂で、不伝聞公首座を、初住とし、文化年間に安藤家 (法地開基) により庫裡が寄進されて、天保の頃法地寺院に昇格し、全翁桃仙大和尚を法地、初任とし、現在十二世 (通算二十三世) になる。(列表参照)

浄元寺の歴史

極 楽 寺

山門の前の坂を極楽寺坂とよび張州府志に 「相伝 府下亀口山極楽寺之寺跡也」 又、村雲の長者及び長者塚 (姫塚) の伝説地で、鎌倉時代の幻の寺、極楽寺の遺跡である。

創建

当山の創建は、開基の歿年から、永禄年中(尾張志など) とされ、以後約百年間は無住の観音堂で、江戸時代、初期の寛文頃より草庵として堂守が住むようになった。

伽藍の建立

宝永7年、萱葺の本堂が建立され(尾張行記)延享4年には現在残る唯一伽藍の山門が(棟札)文化年間には、庫裡が寄進され、寺院としての形が整い、幕未の弘化・嘉永の頃、法地寺院(一般寺院に昇格した。

本堂の改築

江戸時代から昭和9年までの本堂

江戸時代から昭和9年までの本堂

昭和12年から20年の本堂

昭和12年から20年の本堂

建立以来二百余年がすぎ荒廃が目だち、又付近の都市化により萱葺が認められず、昭和9年解体、昭和12年落成の当宗寺院には珍らしい鎌倉時代様式の総桧造りの本堂と、茶室「友仙窟」が新築された。

 

戦災と仮本堂

昭和20年の空襲により三度の戦災をうけ、山門を残し 境内のすべての建物を失った。戦後の間もない昭和24年仮本堂が竣工し、数次の増築を重ねて拡張し、新本堂完成後は庫裡に転用きれた。

新本堂の建立

昭和43年発願、45年着工、47年総持寺貫首・岩本勝俊禅師をむかえ、転信徒挙げて慶祝の中に、落慶法要と因脈会が執り行なわれ当山の戦後は終った。前住職の実弟の総持寺副貫首・大雄山主の金剛秀一老師のご慈慮による天然記念物・大雄山杉と転信徒の職方の手になる新本堂は、全国に類のない本堂で当山の誇りである。

本堂

本堂

本堂

本堂

庭

白壁

白壁

売 茶 堂

売茶堂

売茶堂

売茶堂扁額

売茶堂扁額

知立市八橋のかきつばたの名所 無量寺に住む 八橋売茶翁の煎茶道は、大正初年に家元が当寺に移り、友仙窟六十周年を記念して売茶堂が建立され、物故者を祀る当流煎茶道の道場が完成した。

本堂再建十周年記念事業

昭和57年本堂再建十 周年を記念して、山門付近の土塀が柦信徒の協力 で完成し、石垣の上の白壁と植樹した楓の新緑や 紅葉は、趣のある禅寺の風情を一段と高めました。

浄元寺の故事と人

亀口の泉

亀口の泉

亀口の泉

尾張志に「本堂の西南、竹林のうち、姫塚という古墳ありて、其の傍よりたえず湧出る、いとうるわしき清水あり」とあって、山門前の極楽寺坂を通り名古屋の城下に至る往復の休息の場として親しまれ、良質の水は三名泉の一として、名水を求める茶人の来往も多く、「亀ロの水に齢よわいをのばしけり」の句も残されている。

姫塚

本堂の西、駐車場の銀杏の木に囲まれて姫塚がある。張州府誌に「姫塚在御器所村或日長者塚不知所由」尾張志に「亀井六郎の婦女なりといい伝えたれど詳ならず」また、持萩中納言の娘(秀吉の母の姉妹)の説もある。

一空正念

(百五十才の老婆)

四代の住職に仕え、炊事などの雑事をして百五十才のとき、本邦未曽有のこととして、お城に召され、金帛を賜り、その年の暮に(1699 元禄12年12月晦日)に天寿を全うし、翌春、龍興寺の盟棠菴夾大和尚を導師に、尾張藩士で尾張風土記(未刊)の撰者、福富天然ら名士多数が参列し、当寺六世秀哲が施主となり葬儀が行なわれ、参会者の追悼の偈語・詩文の寄書の長巻が残きれている。

書家・蝸庵

文化十年(1813)-明治二十二年(1889) 77才

当山五代拳従道虔、矮竹蝸庵と号し、幕末の曹洞宗三能書の一人、大阪の琰眉の門人で、隠居の後大須に住み、書家として名声を集めた。

全倫祖中

天保元年(1860)-大正二年(1913) 84才

名古屋本町の薬種商、高取家四代吉兵衛の子

横浜市本覚寺の大統義孝和尚の弟子、熱田の白鳥山の鼎三老師の侍者を勤め、師の語録「天籟余韻」を編集発行した学僧で、維新後無住で荒廃した当寺をつぎ、七世として中興した。

裏千家流の茶人で、天先庵と号した。

全友祖巌

明治十三年(1884)-昭和十三年(1938) 59オ

七世の弟子、亀口の泉の梶原家に生まれ、浄元寺九世高取家六代をつぐ八橋の紹温禅師に煎茶を学び、師の京都転住とともに売茶流家元を継承し、昭和十二年本堂と茶室、友仙窟を建立した。

大道師賢

明治31年(1898)-昭和四十二年(1967) 70オ

幼時父を失い、坂下(高蔵寺市)観音寺の虫賀玄亮老師の弟子となる。浄元十世、高取家七代、友仙窟二代をつぎ友松と号す。戦災で全か伽藍を失い戦後仮本堂の建立、煎茶道の再開など苦難の道を歩んだ。

亀岳正春

昭和三年(1928)-平成十二年(2000) 72才

十世の実子 浄元寺十一世 高取家八代 売茶流家元三代友仙窟をつぎ友正と号す。